ひとり言 11月22日 過ぎたるは及ばざるがごとし

私のホームペーの中の「ひとり言」はパソコンの環境により、しばらく更新できません。そこで、ブログ「風のたよりfrom バンクーバー」上に載せることにしました。テーマが、バンクーバーから外れることもありますが、ご覧戴ければ幸いです。


2007年から団塊世代の大量定年が始まる。そのまま仕事に留まる人もいるが、ボランティア活動を始める人も多いだろう。ボランティアは善意で困った人を助けたい、自分が元気なうちに役に立ちたいという精神で、より良い社会には不可欠なものだと思う。でも、何事も行過ぎれば、弊害が出てくるのは、ボランティア活動にもいえることだ。

まず日本語教師として、私自身がボランティア活動のなかで感じたこと。
私が以前日本語教師として、ある日本語学校に所属していた。その団体は、Feeを取って、日本語を教えていたが、週1回ボランティア活動として、学習中の外国人のための日本語のFree Talkingの場を設けていた。時々、私もその活動に参加していた。そして、顔見知りになった中国人の女医さんが、Free Talkingの時間の後で、色々な書類の書き方などを尋ねてくるようになった。そんなある日、彼女は私に定期的な日本語の個別指導を私に頼んできた。自分が役に立てばと思い、その申し出を引き受けそうになったが、定期的に教えることはできないと断った。その理由は、私が所属している団体は営利目的の学校であり、その関連で知り合った生徒と定期的な取り決めをする場合は、学校を通さなければならないと思ったからだ。その当時から、日本語教師になりたい中高年は多く、無償でもよいから、という人も多かった。それは、ボランティアというより自分自身のために、裕福な人にも無償で教えてしまうことになる。結局、それが日本語学校の経営を危うくしている遠因にもなっている。

次は、最近、親しい友人から聞いた話。
彼女の夫、A氏は証券会社を退職後、地域のボランティア団体に所属した。 そして地域の人達の希望で、現役時代の経験を生かし、投資セミナーの講師をするようになった。
退職後しばらく落ち込んでいたA氏は自信を取り戻し、生き生きとした表情で講座の講師を務めた。受講生の多くは、夫の退職金の運用や老後資金の資産運用などを学びに来る中年の女性が多かった。その中の一人B子さんは、夫を数年前に亡くし、輸入雑貨店を経営していた。そしてA氏とB子さんは、九州の同じ町の出身だったことがわかり、他の受講生にない親しみを感じるようになった。
A氏は、1人で頑張っているB子さんの助けになればと思い、店の経営の相談にものることになった。彼はその「仕事」にやりがいを感じたようで、その店に頻繁に出入りするようになった。その結果、狭い地域の活動の中で、ジワジワと噂が広がっていった。
ふとした弾みで噂を耳にした友人は、夫であるA氏から事のいきさつを尋ねた。そして友人は次のように解釈したという。「A氏は家の中の書斎という物理的な居場所があったが、自分を必要としてくれる居場所が欲しかった。まだ仕事をしたいという願望も有った。それをB子さんの店に見つけたのかもしれない。」
私は友人の話を聞いて、「男の居場所」について考えてみた。多くの退職者と同じように、A氏の場合も、「男の居場所」が欲しかったのだろう。「男の居場所」とは何か?それは居酒屋やスポーツクラブのような遊びの場所ではなく、自分の能力が発揮できる仕事場ではないかと思う。A氏はB子さんの店に行けば、自分の能力の発揮できるだけでなく、同郷の気心知れた女性が、先生として崇めて、頼ってくれる。退職後の中高年の男性にとっては、まさに理想の「居場所」だったに違いない。それで足繁く通い、あることないことが噂になってしまった。過ぎた親切は、色々な憶測を生むのが常なのだ。これから団塊世代の大量定年が来年から始まる。このような退職したばかりの、まだ能力も気力もある中年が、ボランティア活動をすれば、このような意外な問題が起きることが予測できる。

私の所属していた日本語学校も、2007年以降、有能な団塊世代の先生がボランティア活動を始めたら経営が難しくなるのではと、少し心配している。日本語を教えることを生活の糧にしている日本語教師の足を引っ張ってはならない。これは他の業種にも言えることだが、ただや安過ぎるFeeで、労力や技術を売ってはいけないこともあるのだ。
友人の夫の場合、自分の能力を発揮したい、人の役に立ちたいと思っていた時、B子さんに頼られた。そして偶々彼女が独身だった。傍から見れば親切すぎる友人の夫の活動が、余分な憶測を生むのは目にみえている。もし、A氏が足繁く通う本当の理由が「男の居場所」だけだったとしても、このような噂は時に、友人の家庭に思わぬ波紋を投げかける。またB子さんの商売にも悪影響を及ぼす事も考えられる。
最近友人の夫A氏は、あの善意と努力は何だったのか、と意外な成り行きに驚き、すっかり人付き合いに自信を無くしてしまったという。

行過ぎたボランティア活動や過度の善意は、人のためではなく、自分の自己満足のためだというのは、言い過ぎだろうか。
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by amtask | 2006-11-23 11:39 | ◎ ひとり言 | Comments(2)
Commented by ginger at 2006-11-24 16:19 x
こんにちは。
コメントは初めてになりますが、以前より興味深く読ませていただいています。

団塊世代の先生が増加することにより、日本語学校の経営が危なくなる、なんて考えたこともありませんでした。本人が良かれと思ってしていること、また傍目にも立派なことが、意外にも弊害を生んでいた。こういった事は、なかなか気づきにくいことだと思います。私の場合、amtaskさんの問題提起により、初めて納得が行きました。事前にストップをかける為にも、何らかの対処が必要かもしれませんね。

一方、ご友人の旦那さんの出来事は珍しいことではないように感じました。A氏やB子さんは、周りの目をあまり気にしていらっしゃらなかったようですね。事が深刻になる前に、どなたかが助言してあげると良かったかもしれません。世間は噂好きですから(笑)。




Commented by amtask at 2006-11-25 15:19 x
Gingerさま
コメントを有難うございました。ボランティアと仕事を考えた場合、ボランティアの限界と、同業同種の仕事の領域を侵してはならない範囲を考える必要があると思います。私が日本語教師だった時、裕福な外国人に日本語をただで教えて、私たちが1時間数千円も払って英会話を学びに行かなければならないことに矛盾を感じました。本当に困っている人に手を差し伸べる、生活に必要な技術の普及や啓蒙など、行政だけでは不十分なところを補うなどにおいて、ボランティアはとても意義のあることだし、必要なことだと思います。何でもバランス感覚が大切なのでしょうね。またご意見聞かせて戴ければ幸いです。
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